襲い来るのは不安と恐怖。





信じられない。信じたくない。





それでも私は確かにそれを、確信していた。





















哀しみの華















天井から何度も聞こえたその足音が、ピタリと止まる。
私たちは声を発することもできずに、ただ天井を見上げて。





「・・・っ・・・!!」





声にならない悲鳴。その場を支配していたのは恐怖という感情。

天井の扉が開いたわけではない。
けれど、確かに"それ"はそこに現れたのだ。

まるで天井の隙間から零れ落ちる液体のように、じわじわと天井に張り付くようにエレベーターの中に侵入する。
そして、その液体は天井に張り付いたまま、恐らく元の形を形成していく。

ようやく形になった"それ"の姿を目にしたのはきっと、ほんの一瞬だった。
一見すれば人間の姿にも見えた。だが、四肢を使って天上に張り付くその姿。
顔のパーツはなく、そこに刻まれていたのは3本の鋭い線のみ。目と口のようにも見えなくもないけれど定かではない。
液体のようにこの密室に入り込んだ名残か、何色かわからない液体がポタリポタリと私の前に落ちる。


それはきっと、一瞬だった。


けれど私の脳裏にはしっかりと、この異形の者の姿が焼き付けられた。





「・・・なっ・・・」





ようやく誰かの声が聞こえた気がした。
それが誰の声かはわからなかったけれど。
必死の思いで出したかのような震えた声だった。



そして、その声が聞こえた瞬間。
異形の者の姿も消えた。





違う。





消えたかのように、見えた。





それは蒸発するかのように、白い気体となって。





私たちの中に"入り込んだ"





はっきりと目に映ったわけじゃない。





それでも。





あの異形の者は今、私たちの中に入り込んだのだ。





普通に考えればありえない。考えすら浮かばない。けれど。





確信を持ってそれを感じた。理屈じゃなく、感覚がそう告げていた。
















エレベーターに乗ったときのように、流れた静寂。
けれどその空気は全く違っていた。
私はその場にズルズルと座りこんだ。





「今の・・・何やったん・・・?」





ようやく口を開いたのは、立ったまま呆然としていた金髪。





「わからない・・・。」





もしかしたら、私が一人で見ていた悪夢だったのではないかとそんな考えがないわけじゃなかった。





「何なんだよ・・・あれは・・・!!今・・・今、俺たちにっ・・・。」





私だけじゃなかったのだ。この奇妙な感覚は。襲い来る絶望感は。
ここにいる4人が皆、同じ感覚を、違和感を感じ取っていた。
ありえるはずのないことを、普通では考えられないことを。

私たちを言いようのない恐怖が襲った。
一体あれが何だったのかもわからない。けれど、私たちは確かに・・・。





『もしもし?もしもし?誰かそこにいますか?!』





全員が茫然としていたところへ、ようやくエレベーターが止まっていることに気づいたのだろう。
警備らしき人の声がスピーカーから聞こえてくる。
私たちはそのスピーカーに一番近いところにいた猫目を見る。





「・・・います。四人。エレベーターが止まってしまって、困っています。」

『わかりました!今すぐ向かいますので・・・!!そのままお待ちください!』





警備員がそういう声とともに、放送スイッチが切れたような音が入り
エレベーターにはまた静寂が走った。
そのまま助けが来るまで、私たちは言葉を一言も発することができなかった。
















ようやく助け出され、警備員室へと連れていかれ、体に異常がないかと尋ねられる。
けれど私たちは誰も、先ほどの出来事を口にはしなかった。いや、口には出来なかった。
あんなことを話しても、誰が信じる?それに私たち自身が信じたくもないこと。
あれは何かの間違いだ。忘れてしまうのが一番なのだ。
先ほどの確信なんて感じなかったかのように、自分の中でそう結論づける。
おそらく他の3人も同じ考えなのだろう。

呆れるくらいの謝罪の言葉を聞いて、私たちはようやくそこから解放された。





「ほな、俺は行くわ。」

「俺も。それじゃあね。」

「うん、それじゃあ・・・。」

「・・・。」





デパートの外に出て4人になってからも、あのことには触れない。
元々知り合いでも何でもない。このまま別れれば、何もなかったことに出来る。忘れて過ごせる。そんな思いで。



そして私たちはそれ以上何も語ることなく、その場を後にした。














彼らと別れて、私は一直線に自分の家を目指した。
小さく寂れたアパートの自分の部屋の鍵を開ける。真っ暗だった部屋の電気もつけずにそのままベッドに寝転んだ。

3人と別れた後も、その帰り道も、そして今ベッドに寝転んでいる今でさえ。
あの異形の姿が頭にこびりついて離れない。
エレベーターを徘徊するような足音、液体のようにじわじわと中に入り込んできたその光景。
ポタリポタリと目の前に落ちる雫。目の前で自分の中に"入りこまれる"という心地の悪さ。





「・・・うっ・・・」





胃から何かがこみ上げてきて、私はトイレへと駆け込む。
ゲホゲホと何度も咳き込みながら、胃の中のものをほとんど吐き出してしまった。
ようやく落ち着いて洗面所で顔を洗い、口をゆすぐ。

そして再度ベッドへと倒れこんだ。
明日も朝からバイトなのだ。今日はもう寝てしまおう。
すぐに眠れるわけなんてないけれど、目をつぶって横になっているだけでも気分は大分違うはずだ。





少しだけ落ち着いた頭で、それでも今日のことがぐるぐると頭の中を巡る。
そして、冷静になってひとつの結論にたどり着いた。

私がした経験は不確かなものだ。
けれど、この世にいるはずのない者に関するプロ集団を私は知っている。
この世にいるはずのない者。俗に言う幽霊や妖怪などの類。
彼らはそれらにとり憑かれた人間からそれを祓う仕事もしている。
相談をしてみて、それが私たちの気のせいならばそれにこしたことはない。

今はもう深夜。忙しい人だから連絡がつくかはわからないけれど。
明日以降にでも一度連絡を取ってみよう。














どうやらいつの間にか眠れていたらしい。
次の日の朝、携帯の目覚まし音で目を覚ます。
元々寝起きは良かった私だが、今日の寝起きの気分は昨日のことを引きずったままのように最悪だ。
それでもそんな最悪な気分をこらえて、私はいつも通りに準備をはじめ30分後には家を出た。





朝のバイト先である、近所のコンビニ。
そんなに人が来るわけではないが、今ばかりは忙しくあってほしかった。
未だ私の意識は昨日の出来事に捕らわれていたからだ。

とにかく何か仕事をしていようと、今朝届いた商品のあるダンボール置き場へ向かった。
それを開けようと、近くにあったカッターを手に取る。





「痛っ・・・。」





前にこれを片付けた人が、刃をきちんとしまい忘れていたのだろう。
よく見ずに手探りでカッターを取った私は、小さな痛みに思わず声をあげた。





「あーあ・・・。」





そんなに強く掴んだわけではない。
指に小さな切り傷がつき、軽く血が滲んだだけだ。

とりあえず商品に血がついてしまうのはまずい。
私は洗面所へ向かって、その血を洗い流すことにした。
血が止まらなかったら絆創膏でももらえばいいだろう。



指を抑えて洗面所に向かう私に、バイト仲間が声をかけて。
軽くカッターの話をすれば、それは自分かもしれない、と謝った。
たいした傷でもないので笑って気にするなと返せば、その子もほっとしたように胸を撫で下ろした。

そんな短い会話を終えて、洗面所に入り血を洗い流す。
どうやらもう血は出てきていないようだ。洗い流した後に血が滲む形跡は・・・。





「・・・?!」





私は自分の目を疑う。
滲んでいた血を洗い流した。再度血が滲んでくる形跡はない。



それどころか。



血が滲んでいた元がないのだ。
つまり、今ついた傷が消えている。

見間違えなんかじゃない。だから現に今、血を洗い流した。
もともと傷がなかったのだとしたら、一体どこから血が流れた?
痛みを感じた理由は?その小さな傷は、確かに私の指にあったのだ。

こんな些細な出来事。
いつもだったら気になんてしない。
けれど今の私は、そんな小さなことが恐怖に思えて仕方がなかった。





ちゃん?大丈夫?」





洗面所の扉の外から、バイト仲間の声が聞こえた。
私は何事もなかったかのように返事を返し、すぐに扉の外へ出た。





小さく震える自分の体を必死で抑えて。





言いようのない恐怖と不安。





例えようのない奇妙な感覚が





徐々に私を支配していくのを感じていた。












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