朝に乗る電車の時間をずらし、車両の場所を移動した。
たったのそれだけで、毎日会っていた郭くんとまったく顔をあわせなくなった。
私と彼のつながりを無くすことは、思っていた以上に簡単だった。

もしかしたら郭くんも私と同じ行動をしていて、顔を合わせてしまうかもしれない。
最寄駅が一緒なのだから、朝以外にも夕方や休日に偶然お互いの姿を見つけてしまうかもしれない。
いくつかの可能性を考えてはいたけれど、それらは今のところ、すべて杞憂に終わっている。

隣に誰もいない座席、静かな車内、電車の走る音と振動。
私は鞄から1冊の本を取り出す。





「・・・・・・・・・。」





一人で本を凝視して、盛大なため息をついた。
彼と顔を合わせなくなって、数日後に気づいた事実。
しかし、それから行動を起こすこともなく、すでに数週間が経過していた。





「・・・どうしよう、これ・・・。」





彼から借りていた本が、いまだ私の手元に残っている。











友達協定












別れた彼氏や彼女が、相手からもらったものをどうするか悩むときは、こんな心境なんだろうかと考えた。
私は付き合ってもいないし、今手元にあるこの本はもらったわけでもないけれど。

借りたのだから返すのは当たり前で、そのままもらってしまうなんてもってのほか。
私はなんとかこの本を彼に返却せねばならない。どうにかできないかと必死で頭を回転させる。

しかし、良い手立てが浮かばなかった。





「今までありがとう。郭くんと友達になれて、よかった。」





あんな言葉を残して去っていったくせに、今更借りてた本だけを返しにいくだなんて、間抜けすぎて言葉もない。
約束を破って告白して、予想どおりに拒絶されて、怒鳴りながらもう一度告白。最後には彼からの言葉すらなかった。
そんな状況の後に、どんな顔で彼に会えというのだ。新手の拷問でしかない。
せめて本を返してから告白すればよかったと何十回も思ったけれど、今更どうにもならない。





、なに難しい顔してるの?」

は悩みだすと一人だけで完結しようとする癖があるよね。適度に吐き出しなよ?」





自分の机でぼんやりと思考にふけっていると、私の前と隣の席に友達が腰掛けた。
彼女たちには私が郭くんにふられたことを話していない。
タイミングを逃してしまっていたということもあったし、何より、なんと伝えていいのかわからなかった。
私と郭くんの関係も、前提にあったものも知らなければ、郭くんは私に気を持たせながらこっぴどく振ったひどい男になる。
そう思われることは嫌だったし、だからといって、私たちのこれまでの関係を一から話す気にも、まだなれなかった。
しかし、顔にでやすい私は、結局何かあったのだと見抜かれてしまうのだけれど。





「・・・あのさ。」

「ん?」

「・・・たとえば絶交した人がいて、でも実は借りてた物があったことに気づいて、それを返さなくちゃいけない。・・・ってなったらどうする?」

「喧嘩したの?誰と?」

「あれじゃないの。電車でよく話す男の子。」

「えー!それっての好きな人でしょ?仲直りしなよ〜」

「まあまあ、にも譲れないものがあるんでしょ。」





少しにごして言ってみたけれど、そんなものは無意味だったらしい。
けれど、私がはっきり言わない理由を察してくれるのもさすがだ。





「まあ、一番はとっとと仲直りすることってのは私も同じ意見だけど。
けど、それが無理で顔を合わせたくないっていうなら・・・そうだな、郵送とか?」

「住所、知らないんだよね。」

「じゃあ共通の友達に預けて渡してもらうってのは?」

「共通の友達もいなくて。」

「電話かメールして、どこかに預けておくのは?もしくは番号ロック式のロッカーに入れて、番号を伝えておくとか。」

「・・・連絡先も・・・わからないです・・・。」

「アンタそれ本当に友達!?空想の人物とかじゃないでしょうね?!」





私は彼の電話番号も知らなければ、家だって知らない。共通の知り合いもいない。
ほぼ毎日会っていたから聞く必要がなかったといえば聞こえはいいけれど、実際は単純にタイミングを逃していただけだ。
あんなに近くにいると思っていたのに、『信頼できる友達』が聞いて呆れる。





「そこまできたら、結論は限られるでしょ。借りてたことを無かったことにするか、直接会うか。」

「でも、の性格的にそのままもらっちゃうっていうのはありえないよねえ。」

「そういうこと。直接会って返してきなさい。」





そう。つまり、直接会うしかないのだ。
おそらく彼は電車の時間も車両も変えていないから、会おうと思えば会うことは出来る。

けれど、それを考えるだけで気が重くなる。
あの時見せた郭くんの表情が頭に浮かんで、胸が締め付けられる。





「しっかし、絶交とは穏やかじゃないよねえ。何があったか話したくないならそれでもいいけど、そういうの勿体無いと思うなあ。」

「え?」

「だって好きだったんでしょ?一緒にいて楽しいって言ってたじゃん。それが急に途切れて、今後も交流を無くすことを決めるなんて寂しいじゃない。」





彼のことが好きで、一緒にいると楽しくて、自然と笑顔がこぼれた。
友達のままでいれば、それがずっと続いたんだろう。何度も、何度も考えた。

友達だったら、喧嘩をしても、たとえば絶交なんて言葉を使ったって、元に戻れることはよくあることだ。
けれど、それが恋愛になると、一度こじれて途切れてしまった関係は、なかなか元には戻らない。

だからこそ郭くんは、友達で居続けることを望んでいた。
私を友達と認めてくれたからこそ、完全に壊れることのないような関係を望んでいた。





「まあ事情を知らないから言えることなのかもしれないけどさ。」

「ううん。ありがと。」

「・・・どうしても嫌なら、私が代理で返してきてもいいよ。連絡はとれなくても、直接会うことなら出来るんでしょ?」

「・・・。」

「どうする?」














その言葉に甘えてしまってもよかったのかもしれない。
すべてを話していないにも関わらず、優しすぎることも、突き放すこともしないでくれる、彼女たちに頼ってしまいたかった。

けれど、それを頼んだところで、自分の気持ちに決着はつかないだろう。
彼の本が手元に残っていた時点で、私にはもう一度、幕引きが必要だった。





「・・・よし。」





帰りの電車で決意を新たにする。
明日の朝、またあの時間に駅に向かおう。そして郭くんに会って本を返す。それで最後だ。
無視されようが、どんな表情を向けられようが、それが私の気持ちを終えるきっかけでけじめだ。

一旦覚悟を決めてしまうと、一気に気が楽になった。もちろん、不安や緊張は消えないけれど。
声をかけて、本を返す。やるべきことはそれだけだ。どう転んでもこれ以上悪くなることはきっとない。

降車駅に着き、電車を降りて、大きく深呼吸をした。
決戦は明日。大丈夫だ。最後にもう少しだけ勇気を振り絞って・・・





「「・・・・・・。」」





清々しい気持ちで顔をあげたその瞬間、私は目を疑った。
乗車駅も降車駅も同じことは知っていたし、偶然出会うことだって考えていたけれど。
そう考えて緊張し、ビクビクしていた間は、これでもかという位に何も起こらなかったのに。

どうして今、このタイミングで彼に出会ってしまったのか。





、」

「きゃあああああ!!」





落ち着いて、冷静に、笑って。
そんな最後にするつもりだったのに。
好きになってもらえなくても、友達じゃなくなっても、せめてその最後が綺麗な思い出になればいいと思ってた。

なのに、あまりに突然の再会に、私は叫び声をあげてその場から走り出していた。

今、決心したばかりじゃないか。明日の朝会うつもりだったものが、今になっただけでしょう。
しかも顔を見るなり逃げ出すなんて、もう絶対に修復しようがないし、綺麗な終わりになんてなるはずもない。



・・・いや、でもちょっと待って。
郭くんの性格上、走り出した私を追いかけることはしないだろう。
それならば、このまま全速力で走って、駅員さんに後を託すというのはどうだろう。
毎日通っている駅なだけあって、顔見知りの駅員さんは何人かいる。
後ろから来る男の子に本を渡してほしいと伝えれば、それで目的は達成される。

混乱した頭で、よくそんなことが考え付いたものだ。
慌てたときほど、その打開策をめぐらせて、思いもよらない答えが出たりする。

それは明らかに逃げだったのだろうけれど、覚悟を決めても、大丈夫だと思っても、想定外のことが起きた時点でそんなものは無意味だった。



その後は改札まで一直線に走るだけだった。
なるべく早く改札について、適当な理由をつけて駅員さんに本を託す。それしか頭になかった。





「っ・・・!?」





視界に入っていた改札口が、急に姿を消す。
代わりに目の前に広がったのは、線路と自販機と見慣れていた綺麗な顔。

掴まれた腕の感覚。息を切らせている私と、表情すら変わっていない彼。





郭くんは、いつだってそうだ。
いつだって私の予想に当てはまってくれない。



一生懸命冷静でいようとしても、綺麗な思い出にしようとしても、咄嗟に思いついた目的も、逃げ出すことさえ。



彼はあっさりと表情ひとつ変えずに、打ち崩してしまうんだ。







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