背筋の伸びたまっすぐな姿勢。綺麗で長い指が、ページを1枚1枚めくっていく。 人もまばらな電車内。乗り換え駅までの15分間。 彼の周りはいつだってゆっくりで、穏やかで、その空間は特別なものに思えた。 友達協定 高校に入学して、生まれて初めての電車通学をするようになった。 中学は徒歩圏内、遊びに出かけるときも地元での集合が多かった私は、電車自体をほとんど利用したことがない。 だから、入学当初は憧れの電車通学に胸を躍らせたものだ。 しかし現実はそうあまくはない。 想像で憧れている間は楽しくても、実際に体験してみれば、理想とは違うことだらけ。 次々に乗り込んでくる、人、人、人。乗り換えの駅では人をかきわけなければ、目的の乗り場へたどり着くことすら出来ない。 通勤ラッシュは大変なのよーと笑いながら言った母親の姿が浮かんだ。大変なんて話じゃなければ笑いごとでもない。 同い年の平均よりも小さいだろう体の私は毎日が戦いだ。 いつかは慣れるだろうと思ってはいたものの、我慢できずに解決策を思いついた。単純な話だ。ラッシュの時間帯を避ければいい。 そうと決めると私はすぐに行動を開始した。元々早起きは苦手ではなかったし、気持ち程度に時間を早めたって意味がないという気合も相まって、今までよりも1時間以上早く駅に着く。 予想通り、ラッシュ時に比べ格段に人の数は少なかった。 この先で乗り換える駅では混雑が残っているだろうけれど、少しは楽になるはずだ。 せっかくだからと、車両の一番前の入り口付近に移動して、電車を待った。 やってきた電車内は思ったとおりに人はまばらで、誰にぶつかるとか潰されるとか考えずに、席に座れることに感動した。 彼の存在を知ったのは、その翌日だった。 快適に電車に乗れたことで、私は時間帯と車両の場所を固定することにした。 気分よく一番前の車両位置まで歩いていくと、昨日は見なかった一人の男の子がそこにいた。 背は高く、体は細い。だからと言って弱々しいわけでもない。健康的にスラリと伸びた手足。 さすがに顔を覗き込むことは出来なかったけれど、"雰囲気がある"というのは彼のようなことを言うのではないだろうか。 同じ駅ということは、この辺の子だろうか。私の中学では見たことがなかったから、別の中学だったのかな、なんて考える。 電車がやってきて、男の子は少し離れた向かいの座席に座った。 車両内に学生服の子は他におらず、私はなんだか気になって、彼の行動を横目に見ていた。 彼は鞄から1冊の本を取り出して、ゆっくりとページをめくり出す。窓に差し込む光が彼の綺麗な黒髪に反射していた。 人もまばらな電車内。ゆっくりした、穏やかな時間。ただ静寂が流れ、聞こえるのは電車の走る音だけ。 数日前までの朝に感じることなど出来なかった光景。その空気に安心感を覚えて、自分も同じように本を取り出した。 そして、朝早い時間の電車にも慣れてきた頃、帰りに偶然、彼を見つけた。 見つけた、というよりも降りた駅に丁度いたのだけれど。・・・女の子と一緒に。 ほぼ毎日一緒の電車に乗っていれば、雰囲気だけじゃなく外見もしっかりと見る機会がある。 いや、遠目にだってわかる。あの顔ならば、当然女の子にもモテるだろう。彼女の一人や二人いたっておかしくない。 二人はホームの椅子に座っているから、私は否が応でも彼らの前を横切らなければいけないのだけれど、なんとなく気まずい。 ・・・というか、彼には少し憧れの気持ちを持ってしまっているから、正直、あまり見たくないというのが本音だ。 あちらからすれば、自分たちが何をしていようと勝手だろうという話なのだろうけれど。 「・・・どうしても?」 「うん。」 「少しくらい試してみたっていいじゃない。私、結構自信あるよ?」 「俺はそう思わないし。」 ・・・・・・ん? これは、なんだろう。想像の逆で、あまりいい雰囲気には見えない。 別れ話?痴情のもつれ?女の子の声は今にも泣き出してしまいそうだ。 「・・・変わったよね・・・そんな冷たいこと言う人だとは思わなかった!」 「そう。」 「そういうのが格好いいって勘違いしてるんじゃないの!?」 「さあ。」 「後悔してもしらないから!」 「それはしないと思うけど。」 「っ・・・もういい!」 だ、だからね、こういうことは尚更駅のホームですることではないと思うわけで。 すごい勢いで、私を追い抜いてホームから出て行った女の子の背中と、後ろで佇んでいるだろう彼を思うとすごく居心地が悪い。 そのくせ、彼の様子が気になってしまって、思わず後ろを振り向いてしまった自分の好奇心が憎い。 「っわ、」 先ほどの彼女を切なそうに見送っているのかと思いきや、そんな余韻もなかったように、スタスタと歩き私のすぐ後ろまで来ていた。 まさかこんな近くにいるなんて思わなくて、思わず声が出てしまう。 彼は、そんな私に我関せずとでも言うように、さっさと追い抜いて駅から出て行った。 「びっくりしたー・・・」 心臓がドキドキした。 もちろん、今の彼の行動もあるのだろうけれど。 それよりは私は、こんなに間近で彼を見たことが無くて。すごく綺麗な顔だったなんて、あさってなことにびっくりしていた。 彼はどんな人なんだろうか。あんなことがあって、それを誰かに見られて、気まずいなんて思わないんだろうか。 ・・・いや、そもそも私の存在自体を認識してなかった可能性の方が大きい気がする。・・・それはそれで、ちょっと寂しい。 次の日も、彼はいつもと変わった様子はなかった。 乗り換え駅までの15分ほどを本を読んで過ごし、到着のアナウンスが流れるとパタンと本を閉じる。 次の日も、その次の日も、変わらなかった。 どこの中学だったのかとか、ブックカバーで装丁が見えない彼の読んでいる本は何なのかとか、どうしてこんな早い時間に電車に乗っているのかとか、聞きたいことは増えていったけれど、何も変わらなかった。 何のつながりもない、全然知らない相手に気さくに話しかけるなんて、気の小さい私には出来なかったからだ。 彼とは学校が違うけれど、路線はほとんど同じようで、帰りにも時々姿を見かけることがあった。 だからつい、帰りの車内を見渡すけれど、そうそう都合よく彼を見つけられるわけではない。 今日も電車に乗りこみ、周りを確認しようとすると、乱暴な大きな声が聞こえた。 「・・・でさー、マジでぶっ殺してやろうかと思った!」 「キャハハハハ!!」 時間をずらした朝よりも、帰りの電車の方が車内の人数は多く、いろいろな人がいる。 マナーを守ることは当たり前だけれど、それが守れない人の比率も残念なことに高くなる。 電車内で化粧をする人も、ヘッドフォンから音漏れしてる人も、狭い椅子に足を広げて座る人も、大声で話す人も。そして今日見かけた人たちは一際目立っていた。 普段なら放っておく。ここで何かを言って、巻き込まれるのは嫌だからだ。そういう建前をすべて取っ払って注意できるほど、私は強くない。 けれど、今日は彼らの立つすぐ近くにおばあさんがいて、大げさにジェスチャーする彼らの手や腕が何度もぶつかりそうになっていた。 おばあさんは困った顔をしてはいるけれど、そこから立ち上がることは出来ないみたいだ。 思わず立ち上がって、おばあさんの傍に行き、今まで自分が座っていた場所を指差しそちらへ移動してもらった。そして、私もそこから離れようとした瞬間、 「感じワリー!なんですかあ?俺らうるさかったですかー?」 「だよねー、こそこそしてないではっきり言えっての!!」 注意は出来なくても、さりげなく場所移動をするくらいは・・・と思ったのが甘かった。 やっぱりやめておけばよかった。からまれることが予想できなかったわけじゃないのに。 「なに?しゃべれないの?」 「私、こういう子って嫌いー。いい子ちゃんってフリして、結局何もできないんだよねー。」 声が出なかった。なんと言えばいいかわからなかったし、何を言っても状況が良くなるとは思えなかった。 誰でもいいから助けてほしかった。頭の中は真っ白で、一刻も早く電車から降りたかった。 「ねえ?なんとか言・・・」 「降りたいんですけど。」 一瞬、思っていたことが声になったかと思った。 でも私の声はこんなに低くない。 「え?」 「次、俺の降りる駅なので。扉の前に集合されていると降りられない。」 「え、あ、はい。」 「お前、何素直に譲ってんだよ!」 「だって、降りれないって言ってるし!この人格好いいからさー!」 「ああ!?よく俺の前でそういうこと言えるな!?」 怒りの矛先が私からそれたせいか、先ほどの緊迫した空気が、少しだけ緩まった気がした。 それからすぐに、電車の止まる音がする。数人が降りた後、先ほどの声がもう一度聞こえた。 「ここでしょ?降りないの?」 何度も目にしているのに、ほんの数回しか聞いたことのない声。 自分に都合のいい想像をしただけかと思っていた。 でも、そこにいたのは間違いなく、彼だった。 もう私のことなど忘れたように、痴話喧嘩を始めたカップルを横目に、私は彼と一緒に電車を降りた。 先ほどのおばあさんが優しく笑って会釈をしてくれた。恐怖と安心感が一気に襲ってきて、思わずその場にうずくまってしまった。 「気分悪いなら駅員室に連れていくけど。」 「・・・おばあさん、残してきちゃったけど、大丈夫かなあ・・・」 「・・・大丈夫じゃない?元々絡まれたのは君だし、あの状況でまだ迷惑かけ続けるようならさすがに周りが止めるでしょ。」 「・・・そうだよね・・・。」 深呼吸をして、気持ちを落ち着けて、顔をあげた。 彼は、表情はほとんど変えずに、呆れたようにひとつ、ため息をついた。 「・・・助けてくれてありがとうございました。」 「どういたしまして。」 口数は少ないけれど、なんだか安心する。 朝に何度も見ている、あの穏やかな空気を思い出すからだろうか。 「それじゃあ俺は行くね。」 ドキドキしていた。 きっと、恐怖とか安心とか、いろいろなものも混ざっているんだろう。 でも、きっとそれだけじゃなかった。 「・・・あの!」 何のつながりもない、全然知らない相手に話しかけるなんて、気の小さい私には出来なかった。 それでも、ずっと思っていた。いつか、ほんの少しでもいいから。 貴方と話してみたかった。 貴方のことを知りたかった。 「私と・・・友達になってくれませんか?」 なけなしの勇気を振り絞って出てきたのは、使い古されたありきたりな言葉で、言った後にもっと良い台詞があったんじゃないかと後悔した。 私にとっては長く感じたほんの数秒の静寂にたえられなくて、慌てて言葉をつなげた。 「その、も、もしかしたら気づいてなかったかもしれないけど、私、朝によく電車が一緒になってて、前からどんな人かなって・・・」 「いいよ。」 「あ・・・」 いきなり何を言ってるんだって、不審に思われたかもしれない。 そう思い始めた直後に聞こえた肯定の言葉。じわじわと嬉しさがこみ上げる。 「ただし、」 「え?」 「ただの友達。それ以外には絶対にならない。」 思わず聞き返しそうになるのをぐっとこらえて、その言葉を頭の中で繰り返した。 彼は今、なんと言った? 確かに私が告げた言葉は、彼への好意からくるものだ。 だからもっと話したいと、知りたいと思った。 友達になりたいと素直にそう言ったけれど。 「それでいい?」 混乱する私をよそに、彼は小さく、綺麗な笑みを浮かべた。 伝えた言葉の後、静寂にまぎれて聞こえたため息は、きっと気のせいじゃなかった。 舞い上がって、自分でもわかるくらい熱くなっていた体温が、一気に急降下していった。 TOP NEXT |