決して多くを望んでいたわけじゃない。
それなのに、その小さな願いすらも叶えることができないの?
最後の夏に見上げた空は
「・・・先輩。もう・・・大丈夫です。ありがとう。」
「・・・。」
「・・・そんな目で見ないでください。本当ですよ?」
どれくらいの時間が経っただろう。
私はその間ずっと、先輩の腕の中にいた。
襲い来る恐怖。
それが消えたわけではないけれど。
先輩の腕の中は、何よりも安心できる場所。気持ちは次第と落ち着いた。
「まだ私・・・何ともないですもん。この体温だって一時的なものかもしれない。
だったら怖がってても損するだけじゃないですか。」
「・・・手。」
「え?」
「震えてる。」
亮先輩は今日何度目かのため息をついて、震える私の手を取る。
そしてその手を握ったまま、まっすぐに私を見つめる。
「お前がいくらバカでも、考えればわかるだろうが。」
「・・・バカって・・・。」
「お前の嘘も強がりも、俺に隠せるわけがねえだろ。」
「・・・!」
「だったら最初から言え。俺への迷惑だとか、心配かけたくないだとかそんな感情は迷惑なだけだ。」
「・・・亮先輩・・・。」
「ったく。何度言わせんだよお前は。」
誤魔化す気も、先輩に嘘をつく気もなかった。
けれど先輩に迷惑をかけるだけだと、強がっていたのは事実だった。
そしてそれは先輩の前では最後まで笑っていたいと願う、自分の為でもあったけれど。
強がって笑っていたって、先輩はそれをすぐに見抜く。
本当に心から笑っていなければ、その笑顔に意味なんてなかったのに。
私を見つめたままの亮先輩の視線を感じながら、言葉を発した。
隠すことのない本当の気持ち。
「・・・大丈夫っていうのは、本当です。気持ちも落ち着きました。・・・だけど・・・。」
「・・・けど?」
「怖いです。・・・すごく・・・。」
「・・・。」
「わかってたのに、理解していたつもりだったのに。
それでも・・・こんなに怖いだなんて、思わなかった。」
震えが止まらない。
わかっていたつもりで、全然わかっていなかった。
自分の体の変化を実感して、初めて襲い来る恐怖。
自分がこの場所からいなくなる。そしてそれは。
目の前にいる、この人と二度と会えなくなること。
「・・・先輩。側に・・・いてください。」
「離れたいっつったって離さねえよ。」
はっきりとした、強い言葉。それでも伝わってくるその声はとても優しく感じる。
自分の中に温かな何かが広がる気がした。
「へへ。じゃあやっぱり・・・大丈夫です。」
先輩の胸に顔を埋めたまま、私の顔には笑みが浮かんでいて。
恐怖は消えない。けれどその恐怖を嬉しさが、愛しさが覆い隠してくれる。
「何にやけてんだよ。」
「嬉しいからです。」
「・・・何が?」
「先輩の側にいられることが。」
「・・・。」
先輩の言葉に即答する私に、二の句が紡げなくなったようだ。
その表情が見たくて、先輩の顔を覗く。
瞬間、視界に入ったのは先輩の真剣な表情。
腕を引っ張られ、先輩の顔が近づく。
そしてお互いの唇が触れる。
未だ慣れることのない唇から伝わる温もり。
特に不意打ちなんてされたら、思考が停止してしまう。
あまりにも速く鳴る、心臓の鼓動だけが自分の耳に響いた。
「お前こそ・・・俺から離れようなんて考えるなよ?」
「・・・え・・・?」
「俺だってお前と同じだ。」
「・・・。」
「側にいてほしいと思ってるのは、お前だけじゃない。」
先輩の言葉が胸に響く。
私と、同じ。
離れたくないと、側にいてほしいと願ってくれている。
先輩の想いはわかっていたつもりだった。
言葉にしなくても、私のことを想ってくれていると。
だけどそれが言葉となっただけで、不安が、恐怖が和らいでいく。
こんなにも嬉しく思える。
こんなにも、幸せになれたんだ。
その後私たちは屋上を後にし、一日をいつも通りに過ごした。
他愛のない話をして、時々先輩にからかわれて、言い合いになって。
それでもいつの間にかまた、元の話に戻っていて。
病院の中庭を歩いて、二人で話すのに最適な木陰を見つけて。
そこから見える夏の青空と、木々の緑色が眩しかった。
外に出られる自由時間は少なかったけれど、病室にいれば消灯時間までは先輩と一緒にいられた。
遺伝子強化兵用の頑丈なつくり。飾り気のない白い壁。それでも幸せな時間に変わりはなかった。
自由時間が過ぎて消灯時間も間際となったその時、扉を叩くノックの音が聞こえた。
「さん。」
「先生。」
「調子はどうですか?」
「・・・えっと・・・。」
低くなった体温が、元に戻ることはなかった。
けれどそれ以外には、なんら変わりはない。
そのことを正直に先生へと告げる。
「体温・・・ですか・・・。」
「何か・・・わかりますか?」
「いや・・・僕にはなんとも・・・。薬の・・・副作用かもしれないが・・・。」
「・・・結局わからねえってことか。」
「役に立てなくて・・・すまない。」
悔しそうに頭を下げる先生。
無理もない。彼は悪い意味ではなく、ただの医者なのだ。
遺伝子強化兵のことも多少はわかっているのだろうけれど、
あんなに研究に執着していた尾花沢の作った薬の効果なんて、解明できるはずがない。
遺伝子強化兵に恐怖して嫌悪する大人が多い中で、それでもこの人は普通に接してくれた。
学校でずっと一緒にいた教師でさえも、避けたくて仕方がないと言う態度を示すのに。
感謝こそすれど、責める理由なんてない。
「大丈夫です。頭を上げてください先生。」
「さん・・・。せめて検査をすれば・・・!」
「・・・いえ。検査は・・・しなくともわかっているでしょう?」
「・・・。」
「なら私は・・・少しでも大切な時間を、大切な人と過ごしていたいんです。」
2度目の検査では、結局何もわかることはなかった。
この薬を解明できるのはきっと、尾花沢本人でしかありえないのだろう。
尾花沢は遺伝子強化兵の命よりも、その力に執着していた。
私たちの命の期限に焦り、学校への侵入を企てたのなら。
たとえこの薬を解明できたとしても、私の運命が変わる可能性なんてあまりにも低い。
それならば、私はただ大切な人の側にいたい。
最後まで、亮先輩の側に。
「・・・そう・・・そうだな。」
「ありがとうございます。気持ちはすごく嬉しかったです。」
「いや・・・すまなかった。僕は・・・自分の無力が本当に悔しいよ。」
「先生のその気持ちだけで充分です。」
そう言って笑うと、先生もようやく笑ってくれた。
それと同時に消灯を知らせるチャイムが鳴り響く。
看護師のアナウンスが聞こえると、先生は亮先輩を見た。
「一応、戻ってくれるかな?」
「・・・一応?」
「ドアの前に政府の監視者がいるんだ。」
「・・・なるほどな。」
先生が肩を竦めながら、小声で話す。
言葉は少ないながら、亮先輩はその意図がわかったようだ。
「さん。じゃあ何かあったらそこのボタンを押してくれ。」
「はい。ありがとうございました。」
「じゃあ俺も行く。面倒な奴がいなくなったらまた来る。」
先輩の言葉を聞いて、一応と言った先生の言葉の意味を理解した。
今は政府からの監視者がいる。
亮先輩が規定どおりに部屋に戻らなければ、私の監視役からはずされてしまう可能性もある。
もちろん、そんなことで無駄な時間を使いたくはない。
だから面倒な奴、つまり政府の監視者がいなくなる頃を見計らって、また部屋に来てくれる。
そしてそれを教えてくれた先生も、このことを黙認してくれるということだ。
私はそれを理解し、先輩の言葉に小さく頷いた。
二人が私の部屋から出て、誰とはわからなかったけれど軽くお辞儀をしていた。
とは言っても、お辞儀をしていたのは先生だけだったけれど。恐らくその相手が政府の監視役なのだろう。
二人が部屋を後にして、残ったのは静寂。
寝るにも早い時間。とはいえ亮先輩が来るまでは眠るつもりもなかったけれど。
手持ち無沙汰の状態で、私は何気なくカーテンを開けて窓の外を覗いた。
窓の外はもう夜になっていて、遠くからは町の灯りが見える。
空を見上げれば、昼間とは違う星空。夜空も充分に綺麗だなぁと暢気なことを考えて。
けれどこの夜空は私に、今日と言う日がもうすぐ終わることを私に告げている。
私はあとどれくらい、先輩の側にいられるだろう。
窓に手をつき、俯いて。襲いくる恐怖を、浮かんでくる涙を懸命に堪えた。
一人になるだけでこんなに心細い。亮先輩の存在がどんなに大きいかを実感する。
ピシッ・・・
小さく鈍い音が聞こえて、俯けていた顔を上げる。
見えていた星空が、町の灯りが歪んでいた。
「・・・!!」
私は目を見開いて、窓から飛びのく。
遺伝子強化兵用にと特別に作られたという窓ガラスにヒビが入っている。
先ほどまで見えていた綺麗な景色が、そのヒビによって歪んで見えた。
そのヒビは先ほど私が手をついた場所から広がっていた。
自分の手のひらを見ると、ガラスで切れたような小さな傷。
遺伝子強化兵の部屋の窓。こんなに簡単に割れるはずなんてないのに。
混乱して、よろけたまま部屋の壁にぶつかる。
そして聞こえた、二度目の音。
「・・・っ・・・。」
言葉にならない。
今度は私が手をついた壁にヒビが入っていた。
そして、気づく。
あまりにも低かった自分の体温が、急激に上昇していることに。
自分の体が、まるで自分のものではないように感じられた。
「・・・嫌・・・。」
ようやく出てきた言葉はかすれ、震えていた。
目の前が霞む。何も、考えられない。
「・・・嫌だ!嫌・・・」
どうして・・・どうして・・・?
「・・・いやぁーーーー!!」
決して多くを望んでなんかいなかった。
私はただ、貴方と一緒にいたかった。
誰よりも大切な、貴方の側に
亮先輩の側にいられれば
それだけで、幸せだったのに。
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