「!」 その声に反射的に振り返らなかったのは、もはやそれが癖になっていたからだろう。 遅れてやってきて、軽く謝りながら、その声は徐々に近づいて。 呆れながらため息をついて、隣に並んだ先輩にようやく視線を向ける。 鼻唄まじりで、楽しそうに水遣りを始める先輩の姿に拍子抜けすると、 怒るのも忘れて、その笑顔につられるように笑った。 「久しぶり。」 けれど、先輩とはもう担当場所も、時間も違う。接点は無くなっていた。 その声は間違えようもないけれど、振り向くことを戸惑った。 だけど、私は先輩に大丈夫だと伝えた。 今までどおりにしなくては。笑って、突然どうしたんですかって、そう言えばいい。 「突然どうしたんですか?根岸先・・・」 振り向いて、視界に入った根岸先輩の姿。 言葉が途切れてしまったのは、久しぶりに話すことに緊張していたからじゃない。 「よかった。会いたかったんだ。」 先輩の表情が、変わっていた。 緊張している様子もなく、私への負い目を隠そうと無理をしているようにも見えない。 その笑顔はあまりにも自然で、穏やかで、優しかった。 幸せの理由 私はいつも、今の時間、場所の担当ではない。 緑化委員の昼休み担当の二人が、揃って来れなくなったため、今日だけ代わりを引き受けた。 元々の担当とはもちろん、根岸先輩ではない。 「連絡いれる前に、まさかここで会えるとは思わなかった。」 頭が混乱してる。だって私たちはきっと、お互いに避けあうようになっていた。 どうやって接して、どうやって話せばいいのか、わからなかったから。 偶然顔を合わせれば笑顔で挨拶をして、ただそれだけ。 「今日の担当、サッカー部の後輩なんだよ。偶然会って、担当代わるって聞いたんだ。」 担当を代わることを知ったとして、どうして根岸先輩がここにやってくるの? しかも、私のように混乱している様子も、緊張している様子もない。 落ち着いていて、穏やかで、今までと変わらないくらいに自然で。 「・・・どうして・・・」 理由を問おうとして、浮かんだ答えに、私はまた言葉を途切らせた。 そうか。もしかしたら。先輩の心のとっかかりが取れたのかもしれない。 私への負い目を吹っ切って、さんとまた付き合うことになったのだろうか。 ・・・いや、もしかしたら、クリスマスに既に二人はよりを戻していたのかもしれないけれど。 どちらにせよ、こんなにも清々しい顔で私の前に現れたのなら、何か進展があったことは間違いないんだろう。 それなら私は、私のすることは、動揺を見せないことだ。 笑って、おめでとうございますって、そう・・・ 「・・・っ・・・」 まだ何も言われていないのに、その言葉を告げる自分を想像するだけで、息がつまった。 先輩に会わないでいれば、自然とこの気持ちは薄れていくのだと思っていた。 もし先輩が彼女の話をしたとしても、笑って言葉を告げられるくらいには、落ち着ける期間はあったはずなのに。 ・・・ダメだ。 勘付かれるな。 笑え。 笑っていなきゃ。 「・・・そ、それで、なんでここに?もしかして手伝いに来てくれたとか?」 うまく笑えなくても、私にはそれしかない。 何でもない振りをして、今までどおりに会話をして。 そうしていればきっといつか、それが本当になるはずだから。 「あはは、先輩、そんな気遣いが出来る人でしたっけ?大丈夫ですよ。元々緑化委員の仕事は一人でも出来る量だし。」 「うん、知ってる。」 「でしょう?ただ遊びにきたっていうのなら・・・」 「。」 遮られるように呼ばれた名前。 それ以上、何も言わせないかのように、先輩はまっすぐに私を見つめた。 「話があるんだ。」 いやだ。 何も知りたくない。 あの人とどうなったかなんて、先輩の口から聞きたくない。 報告なんていらない。 嘘でも笑える自信がない。 話があると言った先輩は、それから何も言わなかった。 私が俯いたまま、先輩を見ていなかったから。 だって、どうしろっていうの。先輩の顔を見ながら、話なんて聞けるわけがない。 どんな顔を見せてしまうかなんて予想がつく。きっともう、笑顔をつくることさえ出来ない。 それでも先輩は私を待つ。ずっと、私を見ている。 元々、気にしないでほしいと言ったのも、大丈夫だと笑ったのも私。 先輩に会わない間、自分自身さえも大丈夫なのだと思い込んでいたんだ。 それなら最後まで、思い込んで、貫き通せ。 あの日から、上辺だけの笑顔で誤魔化してきた。避け続けてきた。 先輩の幸せを願うのなら、本当はちゃんと向き合わなきゃいけないこと、わかっていたはずでしょう。 拳を握り締めて、小さく深呼吸すると、意を決して顔をあげた。 「・・・?」 そこには目の前で、規則正しく揺れる銀色。 太陽の光が反射して、それが何か、すぐにはわからない。 「・・・これって・・・あのときの・・・?」 私も色違いで、同じものを持っている。 先輩と一緒に行ったカフェでもらったキーホルダーだ。 でも、落として無くしてしまったと、そう言ってたはずだ。 偶然見つけたのだろうか。まさか、それを報告するためにここに? 「・・・先輩、あの・・・」 「無くしてごめんな。心当たりのあるところ、全部探して見つけてきたんだ。」 ・・・どうして? 今更それを見つけてどうするの? 無くしたことをずっと気に病んでいた?だから、私にそれを伝えたかった? 先輩が何を伝えたいのか、どうしたいのか。意図が掴めない。 混乱して戸惑う私の手のひらにキーホルダーを置いて、先輩はそのまま私の手を握った。 「。」 先ほどまで冷静で穏やかだった先輩。 なのに今は、その手が小さく震えてる。 「俺の思ってること、全部正直に伝える。お前に、聞いてほしいんだ。」 私自身も戸惑っていたから、気づかなかったんだ。 先輩もきっと、どうすればいいのかわからなかった。 久しぶりに顔を合わせて、どう声をかけて、何から話せばいいか、わからなかった。 緊張して、けれど、せめて自分は冷静にいようと言い聞かせた。 今はもう、震える手も、緊張した表情も、隠しきれていない。 「聞いてくれるか?」 その先にどんな言葉が待っているのかわからない。 今以上に心が痛んで、もう先輩と顔も合わせられなくなってしまうんじゃないかって、そんな不安もあった。 でも私は、今までも、これからも、その言葉に対する答えは決まってる。 震える手を握り返して、不器用に笑いながら頷いた。 TOP NEXT |