涙を流したのなんて、いつ以来だろう。

感情が乱れれば、呼吸は荒くなる。
だから私の時間は、いつだって穏やかに流れた。
周りにいた優しい人たちが、そうしてくれていた。

何も変わらない、温かな場所。
自分が人とは違うことは知っていた。
遠くないいつか、終わりが来るのだとわかっていた。

最後のお願いだと迷惑をかけて、私はこの場所にいて。



貴方に、出会うことが出来た。



思い描いた日常は、貴方が叶えてくれた。















ゴースト














音を立てないように、ゆっくりと静かに、自分の部屋の窓を開けた。
最初は戸惑っていた窓からの出入りも、今やすっかりと慣れてしまっていた。
白いワンピースを脱ぎ、寝間着に着替えると、服を手に持ち、目の前に広げた。
この服を着るのも、これで最後だろう。

病院で読んでいた本の中にあった、白いワンピースを着た女の人の写真。
その姿がとても綺麗で、ずっとずっと印象に残ってた。
外に出かけられるならどんな服が着たいと問われたときに、真っ先に浮かんだ。

実際着てみると、それは理想の姿ではなくて、幽霊に間違えられてしまうようなものだったけれど。
それでもこの服を着ている間は、いつもとは違う自分でいられるような気がしてた。





『うちの学校、幽霊出るんだって。』

『えー?そんな噂広まってんの?』

『まじまじ。部活で遅くなった奴らが白い影を見たんだって!』

『この間も七不思議がどうとか言ってたじゃん。暇だなーお前ら。』

『うるせー。本当に出ても助けてやんねえからな!』





きっかけは、偶然病院に来ていた二人の男の子の会話だった。
誰かのお見舞いに来ていたのだろう。共用の待合室で話していた、何気ない会話。
幽霊や七不思議の話題は、テレビや本でも目にすることが時々ある。
噂は噂であって、それが実証された例は少ないのだろうけれど。

会話の中から、彼らの言う学校が自分が籍をおく学校と同じことがわかった。
家からはほんの数分の距離だ。

幽霊という存在を信じていたわけじゃない。
私がいる病院でだって、それらを見たことはなかった。
何かしたいと思い、動き出すには、あまりにもちっぽけだった。
それでも、今まで漠然としていた目的が、はっきりとしたものに変わる。





病院から家に帰って、薬を飲んで、眠っているはずの時間。
何日か様子を見て、お母さんが滅多に声をかけてこないことを確認して、実行に移した。
暗くなった学校に、ほとんど人はいない。時折、遅くまで部活を続けている生徒たちの声が聞こえるくらい。
自分のクラスがどこかということだけは聞いていたから、その教室を目指した。

出しっぱなしのペンケース、机の上に書かれた落書き、遊び心が見え隠れする手作りの掲示物。
本当なら、自分がいるべき場所。けれど、私の場所はどこにもない。
学校に通っていないのだから、当然のことだけれど、ズキリと胸が痛んだ。
私は思っていた以上に、学校に、日常に、憧れていたみたいだ。

それから、自分のクラス以外の部屋も覗いてみる。
期待をしていたわけじゃないけれど、幽霊に会ってみたいというのも本当だった。
もうすぐいなくなってしまう自分。死んでしまったら、きっと何も残らない。
けれど、もしもそんな存在に会えたなら、その先にはまだ何かがあるのだろうか。

けれど、そうそう見つかるはずもなく、幽霊探しは校内探索に切り替わっていた。
本で読んだ、七不思議と言われそうな場所の近くを周り、鍵のかかっている教室は小窓から中を覗く。
結局何も見つけることは出来なかった。

そうして、私は夜の学校に通うことが日課になっていった。
誰に会うわけじゃない。期待をこめているわけでもない。
もし先生に見つかったら、発作を起こしてしまったらと、不安は常についてまわったけれど。
それでも、白いワンピースを着て、校内探索をしていることが楽しかった。
ちっぽけで、くだらなくても、私にとってはじめてのことばかりだった。



だから、初めて英士の姿を見たとき、本当に驚いた。





「「幽霊?」」





音もなく現れて、気配なんて感じられなくて。気づいたらそこにいて。
それは私が気配に鈍感だっただけなのだけれど、ずっと探していたから、ついに本物が現れたのかと思った。

すぐに勘違いなのだと気づいて、全然知らない男の子を幽霊と思ってしまったことが、少しだけ恥ずかしかった。
ただ、その男の子も同じ台詞を言っていた。どうやらお互い様みたいだ。
そんなことを思ってから、私は見つかってはいけない立場だったのだと気づく。
内心慌ててつつ、平静を装いながら教室から逃げ出した。



いつもと違う、些細な出来事。
学校に入り込んでいたのを見られてしまったけれど、どうなるだろう。
もしかして、こういうことが幽霊だとか、七不思議に繋がっていくのだろうか。
・・・そう思われるのも悪くないかもと、少しだけ思ってしまった。
次の日は行かないほうがいいかと思いつつも、気づけば私はいつもどおり学校に向かっていた。





「・・・何やってるの?」





また、昨日の男の子だった。
昨日は忘れ物と言っていたけれど、今日はどうしたのだろう。
もしかして、本当に私のことを幽霊と思っていたり・・・





「君が本当に幽霊だったら、どうしようかと思って。」

「あはは、どうしようって思ってる人の態度じゃないよね。」





そう思うには、彼はあまりに冷静だった。
ここに忍び込もうと思ったときに、誰かに見つかることも覚悟はしていた。
彼が誰かに私のことを告げるなら、それで冒険はお終いだ。
それならばと、私は彼の質問に素直に答えた。





「そもそも何で部外者が、こんなところで肝試しなんてしてるわけ?」





別に傷つくことじゃない。自分自身だって、部外者なのだとそう思っていたんだ。
だけど、それがクラスメイトからの言葉だと思うと、少しだけ胸が痛んだ。
気づくと私は、自分がこのクラスの生徒であることを話してしまっていた。





「・・・?」

「・・・知ってて、くれたんだ。そう、。」





名前を呼ばれたことに驚いて。
見つかってはいけないとか、誰かと関わるつもりはなかったとか、そんな考えが弾け飛んで。
彼が自分を知っていてくれたことが、ただ嬉しかった。







それから、何度も彼は学校に来てくれるようになった。
初めて会ったばかりなのに、会話量だって多くはないのに、彼と過ごす時間は居心地が良くて。
遅くて聞きづらい私の言葉も、嫌な顔ひとつせず聞いてくれた。
会えば会うたび、話せば話すたびに、距離が縮まっていく気がして嬉しかった。

けれど、そのたびに、長引かせてはだめだと思った。
私はもうすぐいなくなる人間で、何も知らない彼に、重荷を背負わせるわけにはいかない。
英士と過ごす時間は、本当に楽しくて、楽しくて。家に帰るたびに、また言えなかったと自己嫌悪に陥った。
日々弱っていく、自分の体。このままでは、彼にばれるのも時間の問題だ。
それならば、このまま、貴方の前からいなくなりたい。

少し大きな発作が起こって、これ以上学校に行くのはやめようと思った。
そしてそれをきっかけに、英士と会うことももうやめると決めた。
突然いなくなったことは、彼を怒らせてしまうだろうけれど、そのまま私を忘れてくれていい。
そう思えるくらいの時間を、楽しさを、幸せを、私は彼にもらったから。





それなのに。





「会いたいと、思ったから。」





貴方はまた、私に会いにきてくれた。



まっすぐに気持ちを伝えてくれる彼に、嘘はつきたくなかった。





「皆がそうしているように、学校に通って、おしゃべりして、笑いあいたかった。」

「・・・。」

「郭くんと会ってる間は、そう思えたの。皆の"当たり前"が"普通"が、目の前にある気がしてた。」





伝えた言葉は、すべて本当だった。



私は貴方の前で、弱ってる姿を見せたくなかった。



当たり前の日常を一緒に過ごす、普通の女の子でありたかった。



だけど、自分が死んでしまうことだけは言えなかった。



英士を傷つけたくなかった。重荷を背負わせたくなかった。



そう思いながら、本当はただ、自分の死を貴方に伝えたくなかっただけだったのかもしれないけれど。











変わりたくなかった。



ずっと、このままでいたかった。



多くを望んだりしない。ただ、一緒にいたかった。



いくら願っても、時間は止まってなんてくれない。
そんなこと、ずっと前からわかっていたことだ。

どうにかして、英士を傷つけない方法を探した。
しばらく入院するから会えないとか、治療のため遠くへ引っ越すだとか、いくつも理由を考えた。
でも、すぐに見透かされてしまう気がした。英士は私が言わないことを無理に聞き出したりはしないだろう。
けれど私は、きっと隠し切れない。彼の向けるまっすぐな視線に、嘘をつき続ける自信がない。

彼が傷つかないとは思わない。後悔だってするかもしれない。それでも。





「私、もうすぐ死ぬの。」





私は、真実を伝えることを決めた。


















?起きてる?」

「・・・お母さん。」

「物音が聞こえた気がしたから・・・具合悪い?大丈夫?」

「うん。ごめんね、ちょっと目が覚めちゃったんだ。」

「そう・・・それ、私が買ったワンピース?」

「うん。」

「気に入ってくれた?」

「すごく。」

「よかった。」





英士は最後まで私の話を聞いてくれた。
私を大切に思ってくれてるって、そう言ってくれた。



それだけで、充分。



だから、お願い。そんなにつらそうな顔をしないで。






ずっと、当たり前を望んでた。



学校に通って、勉強をしながら、わからないところを教えあって。
友達と他愛のないおしゃべりをしたり、喧嘩もするけど、最後には笑いあう。



そして―――・・・





「っ・・・」

?」

「・・・っ・・・かはっ・・・ごほっ、ごほっ・・・」

!!」












望みは、貴方が叶えてくれた。





だから私は、幸せなの。












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