最近・・・いや正確に言えば、もっとずっと前から。
頭を悩ませていることがある。





さん。」

「・・・・・・ハイ。」





背中には壁、両脇にある彼の手が、私の退路を塞ぐ。
いつの間にか見上げなければ見えなくなった彼の大人びた、けれど幼さの残る表情に、身動きが取れなかった。





「俺ではダメですか?」

「・・・。」

「まだ、足りませんか?」





もしも、彼からもう一度気持ちを伝えられたなら。
私の答えは決まっていた。





「・・・ごめんね。」





わかっていた。
これから日本を離れ、遠くに旅立つ彼の最後の想いだ。
今までのように気軽に会えなくなり、私たちは年を重ねていく。
今を逃せば、この先私たちの関係が変わることはないだろう。

見上げる視線を落とした。彼の表情を見たくなかった。
それと同時に、今自分が浮かべている表情も見られたくなかったからだ。





「ありがとう、燎一くん。ずっと・・・応援してる。」















君と僕の10年間















彼、天城燎一と出会いは10年ほど前に遡る。
彼の父親と私の父親は友人関係であり、仕事上の付き合いも深かった。
会社社長である燎一くんの父親。別会社の常務である私の父親。
役職が重要なものになればなるほど、多くの社交場に顔を出す機会が増え、そこに家族を連れていくことも少なくない。
私と燎一くんはそこで出会い、父親同士のつながりもあって話す機会も多く、すぐに仲良くなった。

私には下の兄弟がいなかった分、彼の存在が可愛くて可愛くて仕方がなかった。
燎一くんは一人っ子で人見知りが強かったけれど、一旦仲良くなると、私を本当の姉のように慕ってくれていた。
家が近かったこともあり、お互い個人的に会って遊ぶくらいに私たちの仲は良かった。親たちは本当の姉弟のようだと笑っていた。





ちゃん・・・将来僕のお嫁さんになってくれる?」

「・・・ん?随分ませたことを言うようになったね燎一くん?」

「・・・ませ・・・?」

「私のこと好きなの?」

「うん!好きだよ!」

「そっかーそれじゃあ燎一くんが成長するのを楽しみに待ってようかな。」





あまりに一緒にいすぎて、小さな彼にプロポーズをされたりもした。
そんな彼を微笑ましく思いながら、それが現実になることはないとわかったうえで答えを返した。
その時の私の年齢は12、彼は6歳。小さな彼が本気だったにせよ、私が本気で受け取ることはなかった。









成長するのを楽しみに、なんて言ったけれど、彼の成長は本当に速かった。
そりゃ成長期に入れば、身長も体重も一気に伸びるとは思っていたけれど、それにしたって速い。
ついでに言えば、反抗期のように思える彼の性格の変わりようにも驚いた。
真っ赤になりながら私にプロポーズしたあの頃の彼はどこへ行ってしまったんだと、つくづく思ったものだ。
まあ彼の場合は、親からの重圧や周りの環境によるものもあったのだろうけれど。

それでも私と燎一くんの距離が遠のくことはなかった。
お互い示し合わせて会うようなことはなくなったにせよ、家が近所な分、顔を合わすことは多かった。
昔は彼が私に話しかけることが多かったけれど、立場は逆転し、私から話しかけることが多くなっていた。
燎一くんの乳母であるかずえさんに彼の近況を聞いていたから、その荒れ様を落ち着かせようとした姉としての使命感、なんてものもあったかもしれない。
昔からの付き合いというのは、割と大きかったらしく、話しかければ答えてくれたし、邪険にもされなかった。
元々彼は真面目で優しいことがわかっていたから、私は遠慮することもなく彼に話しかけ続けた。



そして、荒れに荒れた時期に収束が見えてくると、次の転機が訪れた。
















「俺、さんが好きです。」





彼は私の背を追い越し、父親から指摘でも受けたのか、私への呼び方も喋り方も変わり、
一見すれば中学生に見えないくらいに大人びた成長を遂げた。

偶然見かけた彼をいつもどおりに家に招いて、いつもどおりに貰い物のお菓子を振る舞い、いつもどおりに他愛のない話をしていたはずなのに。
突然の彼の告白に私はただただ驚いて、目を丸くしたまま立ちすくんだ。





「そっかーそんな改めて言われると照れちゃうなあ。私も燎一くんが好きだよ?」

「・・・そうじゃなくて!」





そういえば彼もまだ中学生になったばかりだと思い出し、私は昔のように笑って受け流す。
けれど彼は、昔のように誤魔化されてはくれなかった。





「・・・そういうことでは・・・なくて・・・」





真っ赤になって、言葉を探すように視線を泳がせる燎一くんを可愛いと思った。
でもそれはやはり、弟への情であって、それ以上ではなかった。





「・・・俺と、付き合ってほしいんです。」

「・・・。」

「俺はもう昔のような子供じゃない!だから・・・!」





正直、一時の気の迷いだと思ってしまった。
私は彼と一緒に過ごしすぎたのかもしれない。
それこそ、小さな頃からの刷り込みで、年上でずっと付き合いのあった異性に対する、憧れが強くなってしまったのだろうと。





「子供だよ。」

「!」

「私も、燎一くんも、まだまだ子供。」

「そんなことっ・・・」

「ごめんね。中学生と付き合おうとは思えない。それでもいいって思えるほどの覚悟ももてない。」





本当は笑って誤魔化しながら、逃げることもできたのかもしれない。
彼を傷つけない、もっと良い方法があったのかもしれない。
でも、このときの私はこれしか浮かばなくて。

彼が真剣なことがわかっていたから、真剣に返さなければと思った。
中途半端なことを言って、期待を持たれても困る。待ち続けられても困る。
彼には彼なりの幸せを掴んでほしい。心からそう思っていたから。



それから、燎一くんと顔を合わせる機会は極端に減っていった。














自業自得とはいえ、心にぽっかりと穴が空いたように、寂しかったのも事実だった。
今まで仲の良かった弟が、突然遠くに行ってしまった気分だ。
もう昔のように彼と会うことも、話すことも出来ないと思うと、素直に悲しかった。

そんな中、訪れた次の転機は彼をひどく傷つける出来事だった。

ずっと燎一くんの傍にいて、彼を支えてきた、乳母のかずえさんが亡くなった。
連絡を聞いて駆けつけると、燎一くんの姿を見つけた。
彼は、泣くことも落ち込んだ様子も見せずに、父親の隣に並んでいた。

周りの人は、強い子だとか、しっかりしているなんて言っていたけれど、私はそうは思わなかった。
燎一くんは強いけれど、しっかりしているけれど、今そんなものは必要ないと思った。

お葬式が終わって、両親と一緒に天城さんを訪ね、親たちが部屋から出て行くと私たちは二人きりになった。
何を言っていいのかわからなかった。ありきたりな慰めの言葉でさえ、彼の心を傷つけてしまうような気がして。
でも、彼の傍にいたかった。もう私の顔なんて見たくもないかもしれないのに、それでも、昔のように頼ってほしかった。

そうして無意識に触れた、彼の手はかすかに震えていて。





「・・・っ・・・」





俯いたまま声にならない声で、静かに涙を流す彼を慰めることも抱きとめることもなく。
けれど、重ねた手を決して離さずに、彼の傍に寄り添った。

















燎一くんと再び話すようになったのは、それからだ。
私を避けることが無くなった燎一くんに、また話しかけるようになり、彼もそれに答えてくれた。

かずえさんがいなくなって無気力気味になっていた燎一くんは徐々に落ち着きを取り戻して、以前よりもずっと大人びて穏やかになった。
彼と並んでいると、私の方が年下に見られるのではないかと思うくらいに。





さん、会うたびに身長縮んでませんか?」

「全っ然、縮んでませんよ?誰かさんがにょきにょき伸びすぎなだけで。」

「はは。」

「わかっててそういうこと言わないの。」

「昔は俺が小さくて、さんを見上げてたのに。」

「今は逆だね?」

「はい。」

「・・・嬉しそうだね?」

「そうですね。」





身長はとっくに追い越されているのはともかく、その差がどんどん広がっていくのが、少し悔しい部分もある。
あんなに小さくて、撫でやすい位置にあった彼の頭は、背伸びをしたってもう届かない。
私の背はもう伸びそうにないけれど、燎一くんはここまで大きくなってもまだ伸びていきそうだ。





「・・・さん、一人暮らしをするって本当ですか?」

「お父さんから聞いたの?考えてるのは本当。部屋と場所も目星はつけてるの。」

「・・・そうですか。」

「ここから離れるし、あまり会えなくなるかもね。」

「・・・。」

「ふふ、寂しい?」





基本的に素直な彼は、きっと肯定してくれるだろうと、いたずら気味に笑った。
けれど、燎一くんは目を伏せて、落ち着いた様子で息をついた。





「そうですね・・・でも、」

「?」

「俺も、ドイツに行くんです。」





突然の話に言葉を失った私に、燎一くんは経緯を説明してくれた。
お母さんと妹がドイツにいたこと、サッカーを続けていくために、もっとうまくなるために決心したこと。
きっといろいろなことを考えて、悩んで決めたことなんだろう。後ろ向きな考えが多かった彼は今、前だけを向いている。彼の晴れ晴れとした表情が嬉しかった。
でも、私の一人暮らしなんか目じゃない。彼はもっともっと、遠いところに行ってしまう。そう思うと、無性に寂しさがこみ上げた。





















燎一くんがドイツへ発つのが間近に迫ったある日、連絡があり、私は彼に会いにきた。
そして、現在。



燎一くんがまだ私に好意を持ってくれていたことは気づいていた。
そして私自身が、日々成長して違う姿を見せる彼に、思慕以外の情を持ち始めていたことも。

だから私はずっと、悩んでいた。ずっと、考えていた。







「俺ではダメですか?」

「・・・。」

「まだ、足りませんか?」







ダメなんかじゃない。



足りなくなんてないよ。



君はもう充分すぎるくらい、格好良く素敵になった。







「・・・ごめんね。」







でも、ごめんなさい。

20歳の私が14歳の彼の想いも、未来も、受け止める覚悟は持てなかった。
周りの目に動じないほど、図太くも強くもなれなかった。その弱さを補うほどの強い感情を持てなかった。







「ありがとう、燎一くん。ずっと・・・応援してる。」







だからせめて、君のこれからの幸せを祈ってる。


















「・・・そうか・・・」





燎一くんがうなだれるように頭を下げた。
自然と彼の頭が私の肩にもたれかかる。

私の目には涙が浮かんでいて、それを隠すのに必死だった。
ここで私が泣いたら台無しだ。綺麗にお別れしよう。
また彼に再会したとき、笑って話せるように。姉弟と間違われるくらい、仲がよかったあの頃のように。





さん。」

「・・・ん?」

「俺はドイツへ行ってしまうし、貴方とも会えなくなる。」

「・・・そうだね。」

「恋人でもない貴方を繋いでおく権利もない。
俺が帰ってくるまで・・・大人になるまで待っていてほしい、なんて言えないですね。」

「・・・。」

「ドイツに行くと決めたときから、そうなる覚悟はしてました。」





私よりも6つも年下のくせに、格好いいなあ。
もう私がお姉さん面をして傍にいる必要なんて、とっくに無くなっていたんだろう。





「でも俺は、貴方が好きです。」





いつのまにか燎一くんの腕は私の背中にまわされていた。
彼の息が耳にかかるほどに、その距離は縮まっていて。










「これからもずっと、貴方が好きです。」











私の体を強く、強く、抱きしめた。
















どうして?



私、貴方の気持ちを受け流して、誤魔化したのに。



受け入れられないって、傷つけたのに。



それでも貴方は、何度も、何度だって。





「うん!好きだよ!」



「俺、さんが好きです。」



「これからもずっと、貴方が好きです。」









「・・・り、燎一くん、頭がいいくせに、バカなんじゃないの!?」

「え?」

「だってっ・・・ただ一緒にいただけでしょう?小さな頃に出会ったから、姉弟みたいに遊んで、仲良くなって・・・
私、6歳も年上なんだよ?もっと燎一くんに似合う子だってたくさんいたはずでしょう?」

「・・・俺に似合う・・・ってどんな子ですか?」

「知らないよそんなの!もー!」





必死で止めていた涙が溢れ出して、私は子供みたいに思ったことをぶちまけた。
年上であるがゆえの余裕はもうどこかへ吹き飛んでしまっていた。





「・・・燎一くんを応援はしてる。」

「はい。」

「でも、私もう20歳だからね?燎一くんが20歳になったとき、私は26歳。」

「知ってます。」

「だから、待ったりしないし、期待もしないで。」

「俺にはそんな権利ないと知ってるって、さっき言ったでしょう。」

「・・・。」

「ただ、ひとつ言っておくと。」

「?」





燎一くんは疑問の表情を浮かべる私にハンカチを差し出しながら、
中学生らしからぬ穏やかな笑みを浮かべた。





「10年、気持ちが変わることはなかった。」

「!」

「それだけは覚えておいてください。」





・・・ずるい。ひどい。
そんなことを言われて、私だけ君をさっぱり忘れるなんて出来るわけがない。
これが最後だなんて、思えるわけがない。





「『わかりました。今までありがとう。』って言って綺麗に終わらせるのが大人なのかもしれないけど、生憎俺はまだ子供ですから。」

「・・・大人になったんじゃなかったの?」

「俺を子供だって言ったのはさんですよ?」

「・・・根に持ってるし。」

「持ちますとも。」





燎一くんは、不満そうな顔で彼を見上げる私を見て、楽しそうに笑った。

悔しい。すごく悔しい。
中学生に翻弄されて、泣いて騒いで真っ赤になって、これじゃあ意地はって駄々をこねてるのは私みたい。





「また、会いにきていいですか?」

「・・・ダメって言っても来るんでしょ?」

「はは、さすが。」





次に彼に再会したとき、私たちの関係がどう変わっているのか。どう変わっていくのか。



彼の笑顔と、私の胸の鼓動の速さから、答えはもう目の前にあったのだろう。









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